つれづれぐさ – ひと夏の恋と泪の別れに桜は散る、

1本の糸が結ぶ二人の恋の物語 –

ラテン系の言葉では、恋は愛に同じAmour,Amorだが、日本語では、愛にはいろいろあれど、恋は男女の愛だ。その恋心を、老人の身ながら昨夏の始めに感じたのである。

ある晩春の昼下がり、大規模小売店のアパレルショップに入った。気に入って着ていた薄いコートのボタンが取れたので、そのボタンを求めて入ったのだ。対応した女性は30代後半、細おもてのきれいな顔立ち、そして栗色に染めた長い髪が似合う女だ。

女はコートに似合うボタンを二つ選んでくれた。代金を受け取りボタンを包みながら、彼女は聞いてきた。

「ご自身で、おつけになるのですか?」

「家に帰って縫うのですよ。一人暮らしですから」と答えた。

「それでは、しばらくお待ちください、いまつけてあげます」

暫くすると、ボタンが二つきれいについていた。薄いコートにぴったりのボタンだった。

「有難う。ここまでお願いして、すっかり感激しました」

ここで別れるのはおしい気がした。

「携帯の番号をお聞きしてもよろしいですか?」

時々、ショップに気に入った女性がいると、すぐに電話番号をききたくなる性格なのだ。自然体で聞くので、ほとんどの女性が番号を教えてくれる。何気なく聞くので嫌みがないらしい。また、老人なのでよこしまな危険がないと思っているのかもしれない。

勿論、その女も教えてくれた。

「有難う、そのうちにお電話します。山口ともうします。」

と言って別れた。

其の後、何度も店の前を通り、彼女がいると笑顔であいさつし、「そのうちに」、と言って通りすぎる。

やがて、夏が来た。そろそろ、電話をかけようかと思いながら、電話では仕事の邪魔になるかもしれぬので、ショートメールを打った。90語以内で要領よく食事の承諾をとらねばならない。

「この間ボタンをつけていただいた山口です。感激しました。有難うございました。お礼にお食事を差し上げたいのですが、良ければ2~3の日にちを教えていただければ幸甚です」

やがて初デートの日が来た。日は西にはや落ちて、夜のとばりが渋谷の街を蓋い灯りがちらほらと点き始める。代官山並木橋通りにあるビルの9階へとエレベーターは静かに上りゆく。辛い物が好きというので、メキシコ料理店「Hacienda del Cielo – 空の農場」の屋上テラスに向かう。東京タワーがはるかに見える。5分足らずして、彼女はやってきた。名前を「あけみ」という。白いシャツに裾の広いパンツ、色はベージュ色、いかにも清楚ないでたちだ。髪は栗色に染めてはいるが、今様のいやらしさはない。うりざね顔で小さく西洋風の面長タイプだからであろう。

「山口さん、お待たせしました」

「いや私も今来たところです」

これは、いつもの私のせりふだ。大昔のある時、帝国ホテルで女性と待ち合わせをしたことがある。帝国ホテルのロビー前の一段低いカフェテリアで、本を5冊余りサイドテーブルに積んで待っていた。やがてやってきた女性は、「山口さん、この本はな~に?」と聞くので、「これはあなたが来ないときのことを考えて持ってきて読むためだ。あなたが来なければ、本を多く読むので、知識が増える、来ても幸福、こなければ知識が増えて幸福、これが私のバランスシートだ」

「ま、嫌みたらたらね」とすねながらも笑っていた。

そんな昔の思い出にふける余裕はない。辛い料理が次から次へと出てくる。「あけみ」はワインが好きだ。かなり強い。私は、老齢になったので酒はほとんど飲まなくなった。然し、話をスムーズに進めるためには、少しは飲まなければならない。そこで、「マルガリータ」を頼んだ。メキシコのサボテンで作ったテキーラをベースとしたカクテルで、グラスの周囲にメキシコ産の塩を塗ってある。塩をなめなめ飲む舌ざわりが極めて良いカクテルだ。原語ではTequilaというが、私はTe quieraテキエラとわざと発音する。なぜなら、これは「あなたが欲しい→あなたを愛する、本当はTe quieroとなるのだが、ここはなまって」という意味だからだ。

話しは弾んだ。少女時代から事務所に属して女優の道を歩んだが、事務所のマネージャーに2回も資金を持ち逃げされたこと、一念発起短大に入って勉強していたこと、さらにその後また女優業に入り端役として出ていたが、外国に渡り、主役の映画を撮ったこと(侍時代の映画)など、そして、人間関係の軋轢で人間不信になり、統合失調失調症になったことなど、今は病気の母親を抱えて将来はその面倒を見なければならない、いまの仕事は非正規社員としての働きであること、しかし、売り上げ実績では、絶えず店でのトップを維持しているなどなどだ。

女の一生で、此れだけ豊富な経験と、しかも浮き沈みの激しい人生を歩んできた38歳の女性、でも、其れを人に見せない容姿と態度、しかしながら、その裏に深い陰を持ち、そういえば、かすかな憂いが漂う! これに惚れぬ男がいるか?

その身の上をきいた私は、彼女を極力サポートしようと誓った。初めの好奇心が恋心に変わった瞬間だった。

数回のデートを重ねて、互いに手をつなぐ中となった。歌は非常にうまいが、どこかに陰が見える。ガラス細工のようで強く抱きしめれば壊れるような感じで、抱きしめることも遠慮しつつのデートだった。

私は、深く考えた。このまま進んでもよいだろうか? 私は今は独身で問題はない。体を要求しても応じてくれるだろう。だが? と少し考えたいと思った。

これが本当の愛なのか? 恋心を持ちつつお互いに心は通じ合った。然し、人生「恋心」だけでは渡れない、そこには思慮深い「愛」が必要だ。愛は、「心」を越えて現実に引き戻す「理性」があって初めて成就するのだ。

私はすでに86才(昨年)、付き合っても「あけみ」を支える年月は短い。明日にでもこの世を去るかもしれぬ。その時、「あけみ」はどうなる!

私にとってできることは、彼女の生活を安定させることだ。そうだ、非正規社員を正社員に引き上げる教育をすることだ! 思い出すのは、若い時に読んだ谷崎潤一郎の名作「痴人の愛」だ。主人公は、女を小さな時から育て教育して一人前の女に仕上げた。それから、彼女を物にしようと誘惑するが、いつもお預けを食っている、しびれを切らしてもなかなか物にできない、、、、、というストーリーだ。私は、そんなみじめな男ではない。

まず、心を開かせる。売り子だから心が大事だ、自信が大事だ。知識などは二の次だ。心を静める。夜のデートはやめて休みの昼を使う。二人の家と等距離にある三茶のステーキ屋で会って、ワインを飲ませながら、ステーキを食べ、三茶のキャロットビルの地下、東急ストアで、カートを引いて、食料品のを選ぶのが私の仕事だ。色採りどりの野菜、納豆、豆腐、そしてヨーグルトを選んで籠に詰める。最後に安いワインを詰めて、レジに向かい代金をカードで払う。いつも5、6千円くらい。このくらいなら、私も払える。食に気をつけろといつもアドバイスをする。大きな袋二つになるので、私がもって地上に出る。タクシーを止めて新町方面に走る。車を降りてセキュリティ・ロックを解除してエレベーターに乗り「あけみ」の玄関ドアの前に立ち、荷物を渡して、握手し静かに立ち去る。ここで理性が働くのだ。

よく、銀座や北新地で遊んでいたときに、ホステスを送って自宅までタクシーに乗る、家に入ってお茶でも飲んで帰ってとせがまれるが、私は帰るといって、女性の家に入ったことは一度もない。スケべ―根性はあるのだが、やはり理性が誘惑に勝っていたので、今日の私があるのだと思う。今度もそうだ。「あけみ」はそれを察して、部屋へとさそうことはない。これが私の昼下がりの情事オードリー・ヘップバーン「Love in the Afternoon」の男役ゲイリー・クーパーだ。

ある日、昼食してる時に、耳の話になった。片耳が聞こえにくいとは知っていたが、「あけみ」はどの程度かを全く話してくれなかった。私が何気なく聞くと、実は全く聞こえないのだという。いろいろな病院を回ったが、どの医者もこれは復旧できないという。そこで、食事を終えてすぐに近くにある眼鏡店「パリミキ」に連れてゆき、ジーメンスの補聴器を買い与えた。勿論調整に調整を重ねた上だ。機械だから雑音もひろう。慣れるには少し時間がかかるようだ

そのうちに、三月、いよいよ年に一度の正社員登用試験がやってきた。私は前日食事をして励ました。応援しているから、安心して受けてきなさい。ただ、「試験開始前、面接前には、必ずトイレに行き、開始前には深呼吸を2、3回してから望みなさい。これだけすれば2~3割のアップがあると思う」とだけ付け加えて、自信を持たせたのである。

よく女性の弟子からは、資格試験を受ける前に、「山口さん、激励のメールを送ってください」と言ってくる。激励文だけではお安い御用だから引き受けるが、「山口さんのおかげで、合格しました。有難うございます。食事奢ってくださいね」と言ってくると本当にうれしいが、何のことはない貢(みつぐ)君なのだ。

筆記試験と役員面接後、先週末、見事に「正社員」に昇格したとのメールがきた。直後の週末は、一人で大和路を歩こうと思っていたので、「それでは月曜日の昼、恵比寿ガーデンプレースの千房(chibo)で12時にと送った。一昨日の月曜、鉄板焼きのコースを注文して、祝杯を挙げ、目黒川に出て、散りゆく桜を鑑賞して、同僚にお礼として福砂屋の工場自家売りのカステラを人数分買い求め、さらに、ワインを買って、池尻大橋の駅改札まで降りてゆき、改札で別れた。「あけみ」は、何回も何回も振り向いて手を振った。

もう、この辺でお別れしなければならない。「あけみ」は結婚願望がまだある。優しい伴侶を見つけて結婚し、幸福な人生を送ってほしい。過去の暗い人生を断ち切ってもらいたい。

そう願いながら、心で泣いて、散りゆく目黒川の桜を眺めながら、感慨にふける私だった。

もう、会うことをやめよう。一人前の正社員になったのだから。

「一本の糸」から始まった、「あけみ」と私の半年であった。短い半年の間、二人の恋心は高まった。然り、恋という感情よりも、愛という理性との心の葛藤が渦巻き、ついに、愛の理性が恋心をつつみこんだのである。

かくて、私のひと夏の激しい恋は、冬の厳しい環境での冷静さによって、三月の桜と共に、恋心は、ひらひらと散ってゆくのだった。川面(かわも)に浮かぶ花びらは、流れに乗ってすいすいと去ってゆく。私のはかない想い出とともに。

芭蕉の春を送る歌

「行く春や、鳥啼き、魚(うお)の目は泪」

西行の

「願わくば、花のもとにて、春死なむ、その如月(きさらぎ)の、望月(もちづき)のころ」

恋は惜しみなく与えるのみ!

L’aomour ,C’est pour rien, (恋なんて!)

Tu ne peux pas le e vendre (恋は売ることはできない)

tu ne peux pas le prendre (恋は奪うこともできない)

mais tu peux le donner (だが、恋は与えることである)

おわり

株式会社網屋 監査役 山口 敏治

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